イロハモミジ 季節のグラデーション

朝晩の気温がぐっと下がり、一気に季節が進んだように感じるここ数日。街の木々も万緑の候から徐々に衣替えを始めています。
紅葉の代表樹であるイロハモミジはカエデの一種で、その掌状に深く切れ込みの入った小ぶりな葉は、秋の深まりに伴って鮮やかな紅色へと染まっていきます。今の時期はちょうど、一本の木でも枝先から中心部、樹冠の上部から下部へとグラデーション状に葉が染まっていく様子を目にすることができます。
東京都文京区、東京ドームのすぐ隣にある小石川後楽園のイロハモミジも、大泉水の周りで秋の装いを纏い始めています。葉が美しく色づくには、昼夜の温度差、十分な日当たりや湿度などいくつかの環境条件があります。その点で小石川後楽園のように池を中心に据えた日本庭園や公園は、適度な樹間と湿度が保たれた環境にあるため全国的にも紅葉の名所と呼ばれる場所が多くあるのです。

「もみじ」という言葉はもともと木々の葉が赤、または黄色くなることを意味する「もみず/づ」という言葉に由来すると言われています。もみずとは染め物を「揉み出ず」、つまり水の中で染料を揉み出すことになぞらえ、葉色が染まっていく様を表しているのです。いにしえの人はこの時期、霜さえ降りるようなひんやりとした朝晩の空気の中で季節が進むことを、感覚的に捉えていたのかもしれません。


紅葉の季節はまだ始まったばかりです。公園や街中でこれという一本や一帯を決め、葉がどこから染まっていくのか、紅葉の進みを追ってみるのも楽しいかもしれません。

日本庭園で際立つ水辺の松

松といえば“松竹梅”と縁起物の筆頭であり、能や狂言の舞台の背景にも描かれている木。また青々とした松が美しい海岸の風景を示す“白砂青松”という言葉もあるように、日本人にとってどこかシンボリックな木なのではないでしょうか。各地の景勝や自然を模して四季の移ろいを鑑賞する日本庭園にも松は欠かすことができません。
江東区清澄白河にある清澄庭園は、大泉水(池)を中心に周りを園路が囲む典型的な形式の日本庭園です。ここでは池の縁から水面ぎりぎりに枝を伸ばす松の木々と、その枝ぶりが美しく水面に映る様子を間近に見ることができます。
清澄庭園は当初、地方藩主の下屋敷内の庭園として造られたましたが、明治に入り三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の手に渡ると、さながら石庭の観を呈す現在の姿へと手が加えられていきました。岩崎家は自社の汽船を使って全国から名石を集め園内に配置したほか、一枚岩の石橋やとび石の磯渡りなど、効果的に石を使って池の景観を楽しむ工夫を盛り込みました。実際に石の上を渡ると視線が水面に近づき、歩を進めるごとに池に映る草木の姿が変化していくのがよく分かります。池の中島に植わる松の姿は言うまでもなく、揺れる水面に映る様子もまた日本庭園ならではの風景です。これから迎える紅葉の時期には、松に加えて色づいた他の木々も水面に表情を足してくれます。いつもは見上げる視線を少し下げてみると、新しい秋を発見できるかもしれません。

 

神代植物公園 サルスベリが伝える秋の訪れ

真夏に花をつける樹木は、それほど多くありません。
夏のはじまりから秋にかけて、季節をまたぐように花を咲かすとなればなおさら、 数えるほどです。梅や桜など馴染みある花が見頃の春と、紅葉と共に金木犀が香りを運ぶ秋の間にあって、夏の樹木は花というより青々とした葉のイメージが強いのではないでしょうか。

そんな中、夏真っ盛りの8月に見頃を迎えるのがサルスベリです。
サルスベリは猿でも足を滑らせてしまうほどすべすべとした樹皮の様子からその名で呼ばれていますが、別名を百日紅(ヒャクジツコウ)と言います。これはサルスベリの花を咲かせる期間の長さに由来していますが、早いもので7月から遅いものは10月までと、“百日”も決して大げさではありません。
強い日差しの中で濃紅や白色の花を枝先いっぱいに咲かせた、盛夏のサルスベリの美しさは言うまでもありませんが、“百日”間のサルスベリの変化が楽しめるのがちょうど今、初秋に当たる9月~10月です。
まだまだ鮮やかな花を次々と咲かせ、夏の勢いを保っているもの。秋の風に乗ってその花を散らすもの。同じ場所にあっても枝の生育にばらつきがあるサルスベリはこの時期、まさに移りゆく季節を表すように一本いっぽん異なる姿を見せています。
調布にある神代植物公園の一角、「さるすべり・ざくろ園」でも様々な姿のサルスベリを見ることができます。こちらのサルスベリは庭木や街路樹として剪定された小ぶりなそれとは異なり、自然のまま横に大きく枝を広げています。背丈も街中で見るより高く、枝先の濃紅の花が秋晴れの空に良く映えています。紅い花のサルスベリの奥で白い花を咲かせているのは、シマサルスベリという種類です。班模様の樹皮が特徴的なこちらはちょうど花が散り始めており、ちりめんのようなくしゃっとした細かい花が雪のように舞っていました。
神代植物公園の中で「さるすべり・ざくろ園」は、深大寺につながる門の近くにあります。
サルスベリの木々に新しい季節の訪れを感じた後は、新そばも美味しい深大寺へ秋の散策へと参りましょう。

東京都練馬 900年の時を生きる大ケヤキ

東京都練馬の白山神社には、地域に愛されるケヤキの大木があります。
樹齢はおよそ900年。平安時代の武将、源義家(鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖先)が奉納したものと伝えられており、平成8年には国の天然記念物に指定されています。
鳥居をくぐり本殿へと続く石段の下、周囲の建物と比べてもひときわ大きなその姿があります。樹高19m、美しい扇状に枝を伸ばし青々とした葉を茂らせています。
かつてこの神社には、周囲を囲むようにケヤキの木が植えられており、明治時代には6本、昨年までは石段の上にも同じく天然記念物に指定されていた大ケヤキがありました。しかし台風による幹折れのためやむなく撤去となり、今はこの石段下の1本が残るのみとなっています。
ケヤキのように太く大きく成長する木は、樹齢100年、200年、中には1000年を超えるものも少なくありません。しかしこの大ケヤキの姿をよく見ると、人の一生の何倍もの時間を生きるということが、やはり決して容易いことでは無いということがよく分かります。
縦に大きく割れた幹、象の足のように硬く盛り上がり一部が黒く炭化した根元。900年という時間の中で、この大ケヤキも落雷や樹幹の腐朽などを乗り越えて今日までその生命を繋いできたのです。
取材時は平日の午後、ぽつぽつと雨が降り出す中でも、住宅街にある白山神社には地元の方が日課のようにお参りに訪れる姿が度々見られました。だんだんと強まる雨に道行く人も家路へと急ぐ中、一人のおばあさんがカートを引きながら鳥居の下をくぐってきました。大ケヤキの前で足を止めると、しばしその場で手を合わせ、またカートを引いて帰って行きました。
周辺から出土した板碑から、すでに鎌倉時代にはこの神社を中心に集落が発達していたと言われています。その頃から変わらず根を張り続ける大ケヤキには、訪れた人が自然と手を合わせてしまう神聖な力強さがあります。大ケヤキに手を合わせるおばあさんの姿に、いにしえの人も同じように手を合わせてきたのではないだろうかと、変わらない人間の営みを見たような気がしました。

銀座 柳が伝える水の街の記憶

銀座の街には、通りごとに多くの街路樹が植えられています。
海外ブランドが軒を連ねる並木通りは西洋風の景観を目指しシナノキ、コリドー通りから中央通りまでのびる交詢社通りはトウカエデ、マロニエ通りや花椿通りなど街路樹がそのまま通りの名前になっているところもあります。 ※マロニエ:トチノキ

中でも銀座を語る上で欠かすことのできない街路樹が柳の木です。
柳といえば川や池の周りに植えられ、水面に枝葉を下ろしているイメージの強い水辺の木。
実は銀座はその昔、東京湾に突き出た半島の先端にあり、江戸時代に一帯が埋め立てられた後も川や堀が流れる水の街でした。明治に入りこの地が日本初の西欧風煉瓦街として整備された頃、土中の水分が多いこの地でも根付く街路樹として選ばれたのが柳だったのです。
煉瓦敷きの道路にガス灯、そして柳の木は銀座のシンボルとして親しまれ、明治17年ごろには銀座の街路樹のほとんどが柳になったと言います。
1929年(昭和4年)にヒットした「東京行進曲」で♩昔恋しい銀座の柳〜と歌われたように、道路の拡張や関東大震災によって銀座から柳が姿を消した時期もありました。その後幾度かの復植、撤去を繰り返し、現在は四代目となる柳がこの地に根を張っています。

銀座一丁目と二丁目を区切る銀座柳通りにその名がついていますが、現在、最も多くの柳を目にすることができるのは有楽町に面した外堀通り(西銀座通り)です。商業ビルやオフィスが立ち並ぶ通りに沿って、行き交う人々の頭上をかすめるように柳の葉が揺れています。
すっかりコンクリートに覆われてしまった銀座に、在りし日の水の街の記憶を伝える柳の木。新旧の文化が入り混じるこの街のシンボルは、初代の誕生から今年で140年を迎えます。